同窓会

第30代校長 矢澤校長挨拶

長野県伊那弥生ヶ丘高等学校 第30代校長 矢澤 要輔

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明治44年(1911年)5月、町立実科高等女学校として設立。校舎は、現在の上伊那郷土館の地(旧伊那尋常小学校)に併置され、入学生は、小学校高等科卒業で、修業年限2年、第一回は郡下十か町村か32名が入学、実業教育に重点がおかれました。大正7年(1918年)4月郡立実科女学校となり、大正9年(1920年)4月高等女学校令により長野県伊那高等女学校となりました。同年伊那町の大火で類焼、校舎は全焼。同年10月西町の高台に移転新築が決定しました。大正10年に第一校舎竣工、大正11年県立移管が決定し、同年雨天体操場及び第2校舎が落成しました。大正12年第三代八木貞助校長が赴任し、校庭東の欅、正門の銀杏並木(東京帝大に模して)、満天星ツツジなど校地内の緑地化に尽力され、今日の“大樹森なす学び舎”を築かれました。

校長室には、油彩画『白い襟の婦人』(※1)が掲げられています。作者は辰野町出身の「日本のマチス」と言われ、二紀会を主宰された中川紀元先生です。作品には、1920年巴里中川紀元NAKAGAWAと署名されています。ちょうど県立伊那高女が誕生した年です。紀元先生は、留学先のフランス・パリで、第一次世界大戦後のヨーロッパの女性の地位が向上し、活動的なモダンな洋服、ショートカットのパリジェンヌをくっきり描いています。南箕輪村松澤多氏から寄贈されたと『六十年の歩み』に記載されている「本校のお宝」でもあります。

戦後の昭和24年(1949年)伊那南高・伊那東高の両校統合により、校名を伊那弥生ケ丘高等学校と変更しました。この校名については、昭和6年創立二十周年に際して高津(才次郎)先生の作詞の「同窓会歌」にも歌われている(3番の)「弥生ケ丘に生い立ちし春の若草秋の花…」以来親しまれてきた「弥生ケ丘」の名が衆議の一致するところとなり、校名決定、正式に認可された、とあります。高津先生は、校舎のある西町の高台を「弥生ケ丘」と命名したと、自ら『友垣』に書かれています。(『六十年の歩み』)。この高津才次郎先生は、伊那の地において「井上井月の俳句を集め、井月研究に尽くされた方としてもことに有名であられます。

その後、昭和52年(1977年)男女共学となり、旧校歌を第二校歌と、男女共学にふさわしい校歌(※2)を制定した経過とその由縁については、生徒会誌『弥生第24号~校歌発表会』で作曲者中田義直先生、作詞者宮沢章二先生のお話が詳しく記載されています。3拍子の軽快なテンポの校歌としては大変珍し事や生徒自身が共感できる、生徒の愛唱歌となることを意図してつくられたことが述べられています。

今年創立105周年を迎え、2万5千余の有為な人材を地元に輩出し、「自主自律」「文武両道」を校是として、堅実で学問を尊ぶ校風は伝統として連綿と引き継がれています。

追伸 新校舎完成、創立70周年記念事業の時に正門の校名を上條信山先生(※3)に揮毫していただき、併せて記念式典にお招きをして、お言葉を頂き、併せて『創造』作品を寄贈していただきました。この作品も「学校のお宝」の一つでもあります。 その時に『記念歌曲集 心のふるさと』(※4)が発行されたものと思います。現在、その歌集の拡大版をPDFでHPに掲載しています。愛唱歌としてご活用ください。

 

白い襟の婦人

校歌について

校歌作曲者中田義直先生、作詞者宮沢章二先生について(PDF)

生徒会誌『弥生第24号~校歌発表会』(PDF)

上條信山先生について

上條信山先生について(PDF)

旧校歌碑(PDF)

「創造」(PDF)

『記念歌曲集 心のふるさと』について

『記念歌曲集 心のふるさと』拡大版(PDF)